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  • 小学校の頃は、彫刻や絵が得意で、美術や技術の成績は最高から下を取ったことはなかったです。ただ中学では部活がきつく、授業は居眠りをずっとしてました。それで、高校はろくなところに行けないだろうといわれていましたが、中学の3年生の時に持ち味の直観力で、受験の乗り越え方に目覚め、全教科の教科書を、全て丸暗記し、入学試験をほぼ全教科満点で高校へ入学。しかし当時はおバカな高校だったため、ろくに勉強もせず常に学年10番以内に入れたため、高校3年の頃、応用になり、成績はがた落ち、その為、ぼんやりしているうちに、先生に大丈夫なのか?と言われて、受験ノイローゼという理由で、医者へ。当時は、田舎暮らしだったこともあり、世間を何も知らず、精神病というものが、この差別日本において、最終流刑地だったとも知らず、知能が1/3にまで落とされる、超がつく強い薬を飲まされて、大変な人生をその後何年か送ることになる。その後もその社会のレッテルに苦しむが、それを乗り越え、自分流の生き方と考え方で、乗り越えるという、荒行をやってのける。
  • 父方の血脈は、福島にあり、お爺さんは地主の何番目かに生まれる。その後、郵便局の局の次長だったおじいさんは、当時、局長が賄賂や不正などの行いを、不徳に思い、国に訴えて、自らも上司を訴えたことに責任を感じ辞職。その後、退職金によって、きっと世界はそのうち食うに困る時代が来るだろうと、荒れ地を買い、僕の父と、兄弟で、土地の開墾を始める。広大なリンゴ園になった土地で、有機農法を研究し始める。パイウォーターという、大学で研究されていた、当時異端とされて、見向きもされなかった、すごい水に目をつけて、その水を使って土地の改良を行った。結果1本の木から、100個に及ぶリンゴができる農園になり、生産数はかなりのものである。父は、その後福島大学教育学部に入り、教職の免許を取り、卒業後、横浜に来て、同大学の同窓生の母と偶然バスの停留所で会い、結婚。その後厚木市の小学校の教師になり、その後校長へ。地域で活動を投じている老後を送っている。母方の方は、横浜の保土ヶ谷に産まれる。元は江戸城の書院番をしていたらしい家系らしく、長男は大森の駅前にビルを構えている。次男は、オリンピックのハンドボールの選手のコーチをしている。母の兄は慶応大学で、数学教授をしている。
  • そういう家庭に育った僕は、両親が畑を作るのが必然的に趣味だったので、有機農法で作られた良い食卓を持つ家庭に育ち、すくすくと育つ。ただ、小学校の教職だった親なので、筋の通らない一本通った、思考を持っているため、現代の、お金がお金を産むという連鎖の上で、他国の犠牲の上に立つ、日本の政治や経済を、ちゃんとした目で見ていたため、地元の田舎の考え方や、一部の極右翼的な思想を持った人たちからは、かなり、嫌な目に合ってきた。また僕自身も部活や、小学校から、ずっとそういったねちねちとしたいじめを受けてきたことにより、かなり、社会というものに対して、感じる目は恐怖を伴うもの迄に、もって育ってきたことで、高校のころ、こういった失調症に至ったと僕は思っている。
  • そういう失調症を伴っいつつ大変な青春時代を送っていたが、僕自身を大きく変えたのかは不明だが、合気道というものとの出会いがあった。開祖の植芝先生や出口教祖との出会いなどを通した歴史を学び、また、毎朝1時間仕事に行く前に、自分で考えた、気を増幅させる鍛錬や、良い先生との出会いを通して、気血水を健康に戻していき、だんだんと順調に健康になっていった。当時はものすごい薬の服用や、副作用により、半分人生を諦めていたが、心や、健康な体一つで、どうとでも自分の世界を自由に変えられると、体感した僕は、25歳位のころ、気を伴う瞑想法を編み出し自分でトレーニングを開始する。病気を伴ったり、気持ち的な弱い心を存分に強く援護する、その気法は自分にとって決定的となる、改善をもたらし、素晴らしいい能力も、身に着ける結果になるが、このような気持ちを伴う瞑想法は、どうすれば受け入れられるのか?という、試案の末、今に至る方法を編み出す。